クーリエ・ジャポン『「言葉」こそがあなたの武器である。』

クーリエ・ジャポン『「言葉」こそがあなたの武器である。』、隅々まで読みました。面白かった。
http://courrier.jp/contents/courrier112.html#content-box-center

結構、ベタな特集と思わせて、読んでみると深いものが多い気がします、クーリエ。

2012年フロリダでトレイボン・マーティンとうい17歳の黒人少年がパトロール中の自警団員に射殺された事件、少年は丸腰であったことから過剰防衛や、その背景に人種差別的偏見があったのではないかと疑われたが、2013年に無罪判決となった。

それを受けたオバマ
「35年前なら、トレイボン・マーティンは私自身だったかもしれない」
という言葉に含まれる想いや政治的配慮などを例に、歴史的な政治リーダーの言葉や、その他色々な分野で活躍する人たちの言葉が分析されている。

交渉、教育、対人関係、サッカー選手の代理人から、ナンパテク講座の取材まで、コミュニケーションが掘り下げられている。

クーリエは、政治やビジネスネタを中心に社会的な課題を掘り下げるものが多いと思うけど、人権とか文化ネタも多く、アカデミックな視点も多く織り交ぜられる事から、ビジネスとは無縁の僕でもシームレスに読んで考える事が出来て、好きです。

最後の方に紹介されてた、
速水健朗『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』
http://book.asahi.com/reviews/column/2014012400004.html

も面白そうなので、読んでみたいです。

あと、ヨーロッパの妊娠ツーリズム、ベルギーでの子供の安楽死合法化の動きとその背景にある子供の終末医療と死生観、女性の電話対応時の「アニメ声」は時のおっさんどもの描いた女性性であり、それを女性が脱する傾向にあることを書き綴った「電話対応コンクール」の話なども、色々考えさせられました。

2014年元旦 ニッポンのジレンマ

今日のジレンマを見て思ったこと。

まず学者筋の人がメタ的なこととか歴史性の話をするよりも、

 起業家や活動家の具体的な話を聞く
→個別の活動を国やコミュニティ全体の雰囲気に持ち上げるプラットフォームや
 アーキテクチャの具体案を出す
→選択肢を絞るための方法として学者が話す

の順が良いと思う。

先にメタなこととか歴史性の話を批判的にすると、暗くなるし具体的で建設的な話をする時間がなくなるので(はあちゅう 最高)。

そもそも、学問は構造化することが仕事なんだから、現状の分析が終わったら、出番は後の方が良い。
あと、聞く耳持たない感じは、印象悪いから最初は話聞いた方がいい...
編集は、凄く練られてたと思うけど、科学(や科学コミュニケーション)に限らず、学者以外と学者が対話する際の姿勢って、訓練が必要なのかもなーと思った。

学者から出てくるのが、この先のための具体的な話よりも歴史性と批評だけで、そうなると学問が残念に見えるから、残念だなぁ。
同じ話でも、見せ方大事。

今回は、番組の内容とか編集よりも、学者の態度/姿勢/振る舞い への不満に、注意が行ってしまったなぁ。みんなWIRED読めばいいのにっw

グローバルな個人戦略はきっと「幸せ」を「運ば」ない -ニッポンのジレンマ 「僕らの新グローカル宣言」観た-

もはや、毎月恒例になってきたが、やはり感想をまとめておこう。
後で述べるが、この回は大学というものを考える上で僕にとって良い機会になったので、僕自身のタメのメモとして、これまで見聞きしたことも含めまとめておこうと思う。


さて、
録画しといた ニッポンのジレンマ 「僕らの新グローカル宣言」を観た。


グローカル
今回のテーマは「僕らの新グローカル宣言」ということで、とりたてて文言には、新しさを感じなかったので、そこまで期待しないで見始めたのだが(失礼!)、結果的には、これまでのジレンマでもっとも具体的な内容に感じたし、なんだか温かい希望を感じられた回になった。

グローカルとは、グローバルとローカルをかけ合わせた言葉で、早稲田大学なんかも随分前から掲げていたコンセプト。僕なりの理解としては「グローバル社会になっていくわけだが、だからこそ、地域に目を向けよう!」という意味の言葉。なぜ「だからこそ」なのかというと、番組の最初の20分くらいで結構議論もされていたけど、グローバル経済だと体力の無い地方ほど競争に勝てずに取り残されて行く危惧があるため、地域・地方を守ろうという割と後ろ向きな理由と、ローカルなところにこそ日本特有のオリジナリティがあるんだから、それはグローバル化の中でも武器になる!というような攻めの姿勢の両方が含意されて、それが理由(だと思ってる)。

収録は長崎大学で行われ、ゲスト以外でも地域に所縁のある人が登場して、それが議論を具体的で、現場感のあるものにしていてとても良かった。構成として、とても立体感を感じた。JR九州の取り組みとかがJRの担当者から会場で直接プレゼンされて、その辺は「なるほどなー、良いことだなぁ」と興味深く見ていたのだが、僕は経済学者でも地域研究者でもないので割愛。


大学の地域社会における機能
実例として取り上げられた内の一つに立命館アジア太平洋大学(APU)があった。
この大学は大分の別府に2000年に開学され、各種国内雑誌の大学ランクとかでも特色ある大学として取り上げられてると思うのだが、映像を見た限りかなり多くの国から留学生が集まっている様子。登壇した学生もとても生き生きとしてる。

ここで思い出したのが、一連の国立大学改革。国立大学ってのは全国にこれくらい(文科省へリンク)あるのだけれど、僕は、地方大学はある種の日本の「インフラ」であり、地方に残された数少ない、若き人材の獲得マシーンとしての社会機能があると思っている。

2001年、小泉政権下での構造改革で地方国立大の統廃合の必要性が記され、民主党政権下では大学改革実行プランが発表された。

深くは触れないが、研究大学と教育大学、専門学校的な大学をはっきり分けたりする選択と集中のお話で、今回の番組に重要な結論めいた部分を大胆に要約すると、旧帝大と地方国立大の格差が大きくなるだろうと予想される内容である。
この選択と集中は、大学の研究力を上げ、イノベーションを産む環境を作ることが目的なので、それ自体が悪いわけではないが、様々な問題を含んでいる。

詳しくは豊田先生ブログインタビューを参照して頂くと良いと思う。

また、ネット上では割と有名な対談はこちらだが、財政難ということもありとにかく理由があれば(みつければ; 豊田先生のインタビューも参照されたい)予算を減らしたい財務省の思惑もあり、色々相まって、地方国立大が疲弊していくシナリオが予想されているのだ。

確かに、GDP比で見ると日本の研究費は一貫して高い(アメリカよりも)。しかし、総額で見れば圧倒的にアメリカの方が多いことや、中国などの追い上げにも注意したい。
参考資料:総務省統計(リンク先の格PDF) 総務省統計の平成23年度webでの要約 

こう見ると、現在の財政状況だと潤沢なところから一律シーリングされてもしょうがないだろうと思うかもしれないが、ただソロバンをはじいていてもしょうがないと思う(騙されてしまう)。
番組中でも鈴木謙介さんが言及されていたが、(地域振興などの)各種補助金も数だけつじつまを合わせてもしょうがなくて(ただ消化されてしまう→そして行政が仕事した実績に書類上はなる)、問題は「内容とやり方」である。大学の予算は少子化に伴う20代前後の人口推移に基づき必要な予算や人件費が決められていくのだが、そこには「大学が担うべき機能はなんなのか?」という議論、ゴールセッティングが抜け落ちている。


センター・オブ・コミュニティー(COC):寛容な場としての地方と大学
上述のAPUは、地方行政の意思としても協力されたもので、その地域の行政が、短期的な投資をするよりも長期的な投資を選んだカタチだ。地域に国際大学を誘致することで、別府という街に日本国内のみならず世界から若者があつまり、4年間だけかもしれないがその地に住み、日本の、そして大分の理解者として世界に戻って行く。安定的に地域に若者がやってくることと、それによって出来る将来の繋がりにこそ、投資をしたのだ。

このように、僕は大学というものが地域に人材を集めてくる装置としての社会的意義があると思っている。大学改革実行プランでは、大学の新しい法人のカタチも提唱されており、一つの法人がいくつかの大学を経営できるようになったりすると思うのだが、その際に地方国立大の統廃合がおこることも予想される。これは、グローバルvsローカルが二項対立してしまうかのごとき事態に思える。
単に「経営的」観点からのみ、文科省予算(だけの)の費用対効果からのみ、このような統廃合を行うのは、教育の機会均等の観点からも、グローカルな発展の観点からもマイナスに思える。もちろん、豊田先生のインタビューにあるとおり統廃合もやりようによっては良い方向に向かう可能性もある。今後の道州制などの地方行政の方向によっては、地域の枠組みも変わるかもしれないし、藤村龍至さんのいうようにダウンサイジングをはかる必要性もあるようにおもうが、短絡的な統廃合や「選択と集中」による地方大学の弱体化はグローカルな日本の強みを失うことになると思う。このようなことを行う際には、大学が地域にとってどのような存在であるべきかということを考えなくてはならない(まさにこのへんは藤村さんの専門だと思う)。
APUは別府のなかでも山の上にあるそうだが、学生達は「下界」に降りて地域と交わる。学生サークルが主体的に地域に関わり、またNPOなどもそれに協力するような連携が産まれているとのこと。このような繋がりの萌芽がそこにあるのに、なぜ一方では地方大を切り捨て、一方では地域振興を唱えるのか、僕には政策のグランドデザインが、チグハグに見えて仕方ない。

それ以外にも、地方大学にはフィールド調査とかクリーンエネルギーの実装実験、社会実験など様々な研究の可能性が眠っているように思う。こういう「場」が必要な研究には、都会よりも地方にメリットがあることも多いように思う。
PARTY代表取締役(CEO)の伊藤直樹さんが番組中に言っていてその通りだろうなーと思ったのは、地域の「寛容性」がクリエイティビティを生みやすくするというお話。長崎大学の留学生が中心となるサークルによって、留学生の視点から見た「長崎」をテーマにするインデペンデント映画が作製されたのだが、そこから見える世界は地元の人が見た長崎とは違うもので、外から見た「長崎」の再発見(グローカルな強み)につながる。それはそれで大事なのだが、今はそれは置こう。この映画では、ローカル線を貸し切って撮影してたりして、それに対して伊藤さんが「大変じゃないですか?」的なことを質問したんだが、貸し切ってもかなり安いっw
このことを聞いて伊藤さんが、福岡は映画やCMの撮影などでも市が協力的だとか、東京だと人とモノが密集し過ぎて撮影対象以外もカメラに映り込むからすぐにクレームが入ったりするとか、社会学者の新さんも、東京はすぐにスクラップ アンド ビルド が進むから古いものが残ってなかったりするけど福岡だと古い工場とか撮影に適したところが残ってるとか、地方の強みが挙げられた。で、しかも人が(少ないせいか)寛容で色々やりやすい面があると。


その後、鈴木さんから、イノベーションが起きるのに必要な条件として「寛容性」が挙げられて、なんか会場も盛り上がったというか、目が輝いた気がした。鈴木さんからは様々な前向きなメッセージが投げかけられたと思うんだけど、ただ補助金を与えられるよりも、自分が「参加している」という感じがモチベーションになるとか、なんというか、会場には大学生が多かったと思うんだけど、大学という何にチャレンジしても良い場所でどんどんあたらしくて面白いことやっていけば良いじゃん!地方のコンテンツと寛容性、可能性あるし!!(すいません、ざっくりまとめ過ぎですけど番組ではロジカルに語ってらっしゃいます)みたいなのが(ロジカルに語られたからこそ)未来を感じられた。実際、規模の小さい地方の方が、大学や学生が効果的に一つの地方行政区域や地域にコミットしやすい。

ちなみに、上述の大学改革実行プランでは今後の大学の構想として、センター・オブ・コミュニティー(COC)としての役割が明記されており、これはホントに実現して欲しいなぁと思うのだが、実際には研究大学強化よりも大分予算は少なかったので、予算としてもその意思を示して欲しいと思う。

そう言えば、買ったまま、まだ読めていないWIRED「未来都市2050」では、僕の故郷である仙台の新しい地下鉄の構想の話しが書いてあるらしく、この地下鉄は東北大学青葉山キャンパス(マジで山です)と仙台都心部も繋ぐもので、それに合わせて「街」としての機能を持ったキャンパスも造られるとのこと。今回のジレンマのテーマと関連して、読むのも実現されるのもとても楽しみにしている。



Think Global, Act Local:「頭脳流出」から「頭脳循環」へ

さてさて、終盤になって古市さんが、日本に留学した外国人が祖国に戻っちゃう、とか、日本人が海外に流出しちゃう、といった問題を考えると、こういった方向での活動方針は国策としての意義を持つのか?みたいな疑問を投げかけた。この人は、いつもちゃらんぽらんなふりして、こういうカターイ議論もふっかけられて、実は本当にバランス感覚よく鋭い、面白い司会者だなぁと思った。
それに対して鈴木さんによれば、確かに実際留学した人が祖国に戻らないという「頭脳流出」が中国や韓国では問題になっていて(だからこそ韓国は「流出」しちゃった方がうれしいコンテンツ産業とか電子家電など輸出品に力を入れてるらしい)、しかし、それは新興国ほど問題になるということらしい。発言の真意を僕が掴みきれてないかもしれないが、日本の場合は経済規模もそれなりに大きく、その他の環境も良いので、それほど恐れなくて良いのではないかということかもしれない。逆に言うと、日本が元気になる頭脳循環を生み出せる可能性すらあるということだろうか。

実は、若手研究者であるところの僕は、この件に関しては個人的にもよく考える。実際、僕も留学経験を持っておいた方が色々な面で良いと思うのだが、、、金かかるよなーとか、結婚どうしようとか、うかうかしてると親も歳だしなぁとか、とかとか、色々他にも問題はあるのだが、行った方が良いのだろうと思っている。しかし、留学や研究者の生存戦略を取り巻く言説の中には、やや受け入れられないものもある。僕はこれまで色々とキャリアパスのシンポジウムを学会などで運営したこともあるのだが、海外至上主義みたいなものには、どうも馴染めない。
確かに、日本よりもアメリカの方が研究環境が良い側面はある。だが、よくある極論のように、日本の大学はダメで、できれば大学や院からアメリカ行った方が良くて、アメリカでラボを持つことを目指した方が良い、という意見には「個人的」に賛同出来ない(これは、社会全体としてみると頭脳流出である)。

賛同出来ない理由は、それが現状の「ルール」の上で、個人が成功するためのモデルだからだ。あくまで、一個人が。これは研究のみならず、IT系や金融証券系のビジネスでも同じことだと思う。
英語圏だけが覇権を握るという現状自体にも、疑問を投げかけたい。つまり、グロ−バルがローカルを潰すという流れに、僕は乗りたくないなぁと、昔から思い続けているのである。

基本的には、日本の伝統的な縦社会や体育会系的なノリには、僕は全く馴染めず、滅びれば良いと思っている反面、伝統文化とか、自分の故郷とか、そういうものに、残って欲しいという想いが強くある。それは本当に昔からなのか、震災を気にそれが強まったのか、定かではないが。もちろん、地方出身者なので、地縁血縁からなるしがらみだらけのゲマインシャフト的コミュニティの悪さも知っているつもりである。基本的にはゲゼルシャフト的コミュニティで仕事や活動をしたい。しかし、たとえば九月に吉祥寺祭りで今住んでる地域の人に交じって神輿を担いだのだが、地域特有の縦社会を嫌う一方で、それによって育まれた文化は残したいと感じるのだ。

まぁ、そんな流れで、別にアメリカの流れに乗らなくても、日本独自の研究体制・研究テーマで、面白い研究して、世界から寧ろ人を集めるようなことをする方が、面白いじゃん!と思っているのである(ものすごーく、途中の感情とロジックをすっ飛ばしてますが)。


日本とか、日本の研究・文化が面白いなーと思う人が、一時でも日本に滞在し、その状況が入れ替わり立ち替わり続き、日本と繋がりを持った人が海外に戻って、日本人も海外行って、向こうに残ったり、戻ってきたりする。そういう人たちが、日本の中でも外でも出会ってまた繋がりが広がる。そういうことで、良いんじゃないかなぁーと。
で、それを実現するためにも、"グローカル" に活動する必要がある。

そのためには、世界に目を向けつつも、世界からも受け入れる寛容さをもって、アピールすることが重要。日本で、日本の地方で面白いこと出来るなーと思う人が、若者が、国内外に産まれるようにすることで、ゲゼルシャフトゲマインシャフトが共存するグローカルな世界が産まれるのではないかなぁと。

この辺の事情があって、九月のジレンマの『“救国”の大学論』よりも、今回の方が「大学論」としても好きだなぁと思っていたり。



鈴木さんの発言は、とても「愛」があるなーと思いながら番組を見ていたが、こういうことが可能となる寛容な社会は「"大人"がつくっていかないといけない」旨の発言にも、非常に納得したし、自分もそういう大人になりたいし、やはり、何かへの「愛」を感じた。


ちなみに、前のエントリでも触れた、瀧本さんの本を読んで思ったことも、自分の中で深まった印象。



このエントリ、最後の方は疲れてゆるふわな文章になってしまったが、未来を感じる回だった。
"Think Global, Act Local"という言葉は、その道では有名な言葉だと思うのだけれど、僕はあまりこれまで明確に意識はしてなくて、しかし、この姿勢は、最近僕が考えていることだったり、実際の行動だったりの、基本原理になってるのかもしれないなーと思って、この言葉に自覚的になれて、とても良かった。
ある特定のコミュニティやポピュレーションが、もしくは、だけが、構造的に泣いたり、消えたりするのも、捨てられるのも、捨てるのも、嫌なのよね。
自分がそういう環境から抜け出すよりも(個人だけが成功するよりも)、まるっとよくなったなーみたいな世界を、見たいなと。



PS
年明けに行うイベントに、ニッポンのジレンマのディレクターなどもなさっている大西隼さんにも出て頂きます。実は、大学院の先輩なのです。

SYNAPSE Classroom vol. 3「人と動物のつきあいかた」

世界はすでに、俺より年下(草食系モード)が動かしはじめている!

WIRED のOPEN GOVERNMENT特集をやっとこ読み終わった。
この特集以外にも読み応えあるものが盛りだくさんで、なかなか本論のオープンガバメントに辿り着かなかった。


その内の一つの記事、
「東京スタートアップ・ヒップスター、モードに学ぶ」
は、なかなか面白いというか、ある意味凹む。

今話題の若い企業家達へのショートインタビュー特集だが、とにかくみんな若い。僕と同い年か、年下がほとんどである。自分の名前で、自分の足で立って、とても尊敬もするし、羨ましくも思う。

ショートインタビューには9つ質問があって、2番目の質問が「企業のリスクはどう考えた?」なのだが、冒頭のお二人は少し似たようなことを言っている。メガネのeコマースで有名なったオーマイグラス 六人部生馬 取締役CEOは「会社の行く先を自分で決められない方がリスクだと思うんです」と答え、また、ソーシャルリクルーティングサヴィスのウォンテッド 仲暁子 CEOは「動かないことの方がリスクだと思った」と。

このあたりは、僕も納得するところで、ちょうど先日読み終わった『君に友だちはいらない』(瀧本哲史・講談社)にも通じるところがあると思う。この本の中では、チームアプローチの重要性、目的や課題解決のために集まるゲゼルシャフト的なコミュニティの重要性が説かれていて、上記のお二人は、まさにこの体現者なんだろうなぁと思う。(こちらの記事がこの本のいいまとめ)

君に友だちはいらない

君に友だちはいらない

おそらく、なかば社会主義的な資本主義国家であったところの日本は、ガチな資本主義の流れに否応無く飲まれていくので(本の中での瀧本さんの受け売りです)、安住することこそがリスクであり、このWIREDの特集で紹介されているような次世代(もしくは僕と同世代)はどんどん増えていくんだろうなぁと思う。
この辺の重要性と日本における難しさは、ニッポンのジレンマの感想を書いた前回のエントリとも重なるところがあるが、

さて、このWIREDの記事でちょっと面白いのが、こういった企業家達には「今季の世界メンズモードシーンを席巻する"草食系モード"がよく似合う」らしいのだが、それは「果たして偶然なのか。それとも必然なのか」と。

なんとなく納得しちゃうのは、そう言えば、ジレンマに出るような人って草食系モード似合ってて、朝生に出る人は似合わない気がするなーという印象があるから。草食系モードといっても、色々種類はあるわけで、着てるモノは実際違うわけだけど、朝生に出る人はスーツが多い気がする。で、草食系ってのは、相手を論破するんじゃなくて、課題を解決するためのソリューションを建設的に話し合ってるイメージに重なって、朝生はまだまだ論破型な、「俺様」的な感じがする。


まぁ、なんというか、独立した、多様性のある、様々なアイデアを持った人が自由に課題を見つけて、しかし、そんな自立分散・並列処理が、時に社会の大きな課題を解決していくような時代になっていけばいいなぁと、思います。


ところで『君に友だちはいらない』によると、イノベーションのきっかけの(ありがちな)要因の一つは、世代交代とのこと。


僕も同世代や年下の人に置いてかれないように(そしていつのまにか次世代の障壁にならないように)、研鑽を積みたいと思う、今日この頃です。自分で。
気がついたら、ただ年を取っていそうで、それが一番恐いです。

アーキテクチャまで持ってけ! ニッポンのジレンマ-新TOKYO論

ニッポンのジレンマ、新TOKYO論、観た。
*ワイン飲みながら書いたから校正してない。


面白いなーと思ったのは、鈴木さんが言った「つまらない」ということ。

冒頭で社会学者の新さんが、東京でオリンピックをやらなきゃいけないのは、世界の主要都市間でのプレゼンスとして避けられない当然の流れで、国際競争力が落ちてる東京としては、こういうイベントを通しての変革(都市計画など)をやらざるを得ないと。で、これには建築家の藤村さんも同意。

だけど、そういう(おそらく資本主義的な観点の)話しを、鈴木さんはつまらないと。面白い都市ってのは、そこに住む人が面白い都市であると。僕なりに意訳すれば、そこに住む人が、自身の創発で何かをやってて元気であるのが面白いということかな。で、鈴木さんの実践であるリトルトーキョーの紹介がされる(ここの映像でYOSHさん登場)。
ここでは、仕事を持ってる人が、全く別の市民としての顔を持って、あたかも別の職業をしたり「税金」も払って自治をして、その税をどんな「公共福祉」に使うかの合意形成もする、そういうコミュニティ。
で、鈴木さんはその先に何が生まれるか、明確なヴィジョンを持っていないというか、コントロールするきはなくて、他の色んな都市でもオープンソースのモデルとして似たようなことが起きると、何か面白いことが生まれることを期待してる感じ。
この姿勢って、僕から言わせると非常に資本主義的な感じ。極めてボトムアップの自由な発想の中から生まれるイノベーションに期待している感じは、資本主義の原動力であり得意とするところそのものな感じ。

こういうことが沢山起きることこそが、都市としての国際競争力を上げることにつながる筈で、実はまったく相反することではないはずのことで、一瞬、鈴木さんと新さんの意見が対立したのが、面白いというか、日本の現状かなぁと。



それを物語るアドビの国際調査が途中で紹介されたんだけど、世界の主要都市で最もクリエイティブだと思われてる都市は、なんと東京であると!しかし、東京の人は、世界の他の都市の人と比べて自分たちをクリエイティブだと思ってはいない、というのが、調査の結果。

おそらくこれは、実際に東京、もしくは日本でクリエイティビティの高いアイデアは草の根的には沢山あって、各分野では国際的に有名なんだけど、東京もしくは国全体の構造を変えるには至らないので、自分たちの実感や自信としてフィードバックされないのではないか、というのが僕の意見。

今丁度、WIREDのオープンガバメンと特集を読んでる最中なんだけど、毎回WIREDを読んでて見受けられる事例は、アメリカだと、シリコンバレーベンチャーが開発したシステムやアプリが、各自治体のシステムとして採用されたり、NYの商店がこぞって使い始めたり、ボトムアップのアクティビティが、全体の構造に影響を及ぼす、つまりアーキテクチャの改変に繋がってるんだなぁという、ところ。

おそらく、これが日本には足りない。

それは、アメリカは各州の自治が強くて、日本の地方分権が進んでいないからかなぁとも思う。藤村さんの言葉を借りれば、ある自治体機能を実装するために適した、機能単位がダウンサイジングされてないからかなぁと思う。

だから、クリエイティビティの高さを実感できて、社会全体に浸透させるには、アーキテクチャにまで持って行ける人が、特に日本には必要。
その意味で、番組の最後の方でも紹介されてた藤村さんの大宮の再開発の、計画から実行に至る各段階で住民と役人を交えて「見える化」し、選択肢や合意形成の適切なサイズも設計してやっていくやりかたは、非常に現実的で未来のある実践だと思えます。

藤村さんは建築家だから、様々な問題を、空間設計の問題としてとらえることで、人々に問題をシンプルなカタチで理解可能にするという手法で、見える可し、複雑さをダウンサイジングし、市民と役人、もしくは個人と集団の中で起こりうる齟齬、共通の言語で会話できなくなる共約不能な状態に、共通言語を与えているように思えます。
コミュニケーターやインタープリター、もしくは架け橋。
こういう役目は非常に重要なんだけど、翻って、ボトムアップな活動をしている社会活動家的なことをしている人には、それをアーキテクチャに持って行くビジョン、役人やものごとを俯瞰的に見る学者には、こういった活動を全体の構造を変えるのに役立てる目利き力みたいなものが必要なんではないかなぁと、思って、夜も更けました。

恋物語 -ひたぎ エンド- 第二話を、もう一回見て寝ます。

晒されること、晒すこと(ZENRA)

クーリエ・ジャポン『共感する仲間が増える「働きかた」を始めよう。』号の、
瀧本哲史「そのニュースが君の武器になる Vol. 7」、結構有名なエピソードと思われるハーバード大のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフによる2010年の論文『Growth in a Time of Debt(国家債務時代の経済成長)』における計算的間違いをマサチューセッツ大学大学院生が見つけた話。

院の課題でこの論文が題材となり追試を試みたものの再現出来ず、上記の著者に生データのエクセルの提供を依頼し、送られて来たエクセルの中に間違いを発見したというもの。
様々な英語メディアでも取りざたされた。件の論文は「GDP比で政府債務残高が90%を超えると経済成長が低迷する」という主張で各国の政策の根拠としても挙げられる影響力のあるものとのこと。近年では、EUの政策はまさに当てはまると思われる(僕は専門ではないのでエラそうなことをホントは言えませんが)。

件の院生 トーマス・ハードン氏の功績はもちろん大きいのではあるが(課題にまじめに取り組んだらこの発見にたどり着いたというストーリーが、なんともアカデミックのあるべき姿と、院生にも十分な力と専門性があり、もしかしたら教授級、いや、それ以上のものを持ち合わせていることを示す例として、素晴らしいではないか。まぁ、28歳だし、自我と思考力は既に十分なわけですよね)、その計算違いを認めてもなお、著者らは論文の主張の正当性は崩れないとしている。
もちろん、他の専門家の主張やIMFのデータ等、議論は最前線で確固たる結論に至るには拙速だし、ここは、私の専門ではないのでこれくらいにする。

瀧本氏の指摘として、そもそも債務残高の高さが低成長を導くという因果のストーリー以外に、低成長が債務残高を助長するという逆の因果の可能性もあるわけで、時系列もファクターに含めたより詳細な解析が必要であるが、そもそも、経済学や社会科学で相関以上の因果を解析することは難しい(実験が難しいから)。
これは、さすが瀧本さん、全うな科学的姿勢だと思うわけだが、さらに彼が指摘する重要なことは「晒される」こと、だというのだ。

このコーナーの「今月の格言」を引用させてもらえば、
「あらゆる命題の正しさは、反証に耐えて残っている、つまり、議論にさらされていることで保証されている」というのだ。

これは、自然科学研究にまで拡張しても、現実的運用として私は賛同する。

実験室レベルの(手法的に手堅いと思われる)研究であっても、実験の確率的誤差、手技の難しさ(熟練度)、論文の言語的記載からもれるコツ・ラボごとの些細な手法の違い、などによって結果は左右される。
同じ命題に対し、様々なラボ、様々な手技によって時間をかけて確認される(晒される)ことに耐えた知見は、実に再現性が良い。
私の分野で言うと、「実験の48時間前にエストロゲンを、6時間前にプロゲステロンを打つと雌ネズミが発情する」というのは「見つけた人マジエラい」と思うくらい、再現性が良く、多くの研究者が長年用いている方法である。
逆に、最新の知見は「マジかよ...!?」と感じることが多いのは、もしくは実は再現取れない、ということは、多くの研究者がアンダーグラウンドで思ったりしているわけである。

こういった観点、晒すということが重要であるという点で、再現を取る課題を出した教員、その課題に取り組んだ院生、データを提供した著者は、科学的姿勢に照らして極めて健全であるといえる。

一方、近年のハイレベル・ハイインパクトと言われるジャーナルは、その投稿数の多さによる紙面(字数)の都合から、方法についての記載が非常に少ない。
例えば、「この染色は "Standard protocol" で行った」みたいな感じである。
「普通の方法って何だよ!!っw 普通にやっても染まらねーしっ」なのである。

これでは、「空気感」科として、学が科学たり得ない(反証に"social"なコミュニケーションを要する)。
生物学領域でもっとも権威があると考えられるCell, nature, science (合わせて略してCNS: Cellは生物学総合誌、nature, scienceは科学全般の総合誌)では、以前からこのような傾向が強いが(Cellは、結構しっかり書いてくれるけど)、最近、専門Top誌であるNeuron(Cell 姉妹誌で、nature 姉妹誌のNature Neuroscienceとならぶ神経科学専門top誌)でも、物足りない記載を見かける。
せめて、神経科学の狭い意味での専門top誌で、北米神経科学学会(SfN)の雑誌である J. Neurosci. はそこのところ今後ともよろしく、である。(でも、参考資料のweb版への添付禁止になって、今後どうなるのだろう)。

もっと、自分の手法に自信があるなら、みんな晒していこう。
逆に、晒せないのなら、自信がないのだろう。


同じ意味で、学会や、カジュアルでフランクな研究会に出向いて、
細かい手法まで含めて他のラボの人と話し合うというのは、健全な科学、もしくは、
大学院生などが健全に成長する上で極めて重要に思われる。

実験手技は、実は、ラボごと、分野ごとに継承されるものが異なることがある。
自分のラボだけに閉じこもっていると、ともすれば、無批判に良くない方法を継承し、ガラパゴス化する可能性がある。
もしくは、無意識のウチに、自分(達)を肯定する(したい)方向にしか議論できなくなることもある。論文を投稿してからしか、間違えに気付けないのは、非常に悲しいし、(ボスは、まぁ、いいのかもしれないけど)実際に手を動かす現場の実験者は、それまでの数年(自分の人生)を振り返って、(言われたことを信じて従ってやった人ほど)軽く死にたい気分になるだろう。


個人的には、自分のマインドセットや自信が属するコミュニティ内に他者性を意識的に保ち(疑似晒し)、かつ定期的に、権威性や日本人的遠慮を排して、外部に晒して意見してもらう機会を持ち続けることを忘れたくない。逆に、晒しても怖くない実験と議論を日頃からしたいものである。



さて、科学の現場の話から瀧本さんの連載にもどってみると、
論拠がさらされてさえいれば、少しの教養があれば、専門家でなくとも反証に携わることが可能だと指摘している。
例えば、行政刷新会議が作成した「行政事業レビューシート」というものが公開されいるらしい。
これらに記録される政策に、本当に主張通りの効果があったか検証し、草の根ロビー活動に役立てる実験的な試みを行うサークルなども、東大・早慶・中央大の学生らによって組織されているらしい。面白そう。

瀧本さんもそうだし、データジャーナリズムに高い関心を持つと思われる津田さんがメディアで活躍されることは、非常に「科学的」で、個人的には期待をしている。あと、裏で早稲田のミッキー先生にも暗躍していただきたいw

ところで、この「晒す」ということは、科学的反証可能性を社会的に担保するものであるが、これは、言ってみれば、広い意味での情報公開であり、「民主的」であることの担保である。みんなで使って、みんなで試して、誰でも議論出来る。「みんな」の範囲は、現実的には状況依存ではあれど。



「大学をオープンにするとか、サイエンスコミュニケーションをすることの意味ってなんですか?」と問われることが多いのだが、その理由は、そういうことではないかと、ここ1-2年は考えている。

実験・研究に必要だと思うことを考えてみた。


下調べ(知識)、ロジック、技術力(実験精度)、丁寧さ(手技と計画管理、指導)、過不足ないデータの解釈、コミュニケーション力(プレゼン、コラボ要請、論文と申請書の文章)、政治力(カネとコネ)。

全般的に誠実さは忘れたくないもの。