晒されること、晒すこと(ZENRA)

クーリエ・ジャポン『共感する仲間が増える「働きかた」を始めよう。』号の、
瀧本哲史「そのニュースが君の武器になる Vol. 7」、結構有名なエピソードと思われるハーバード大のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフによる2010年の論文『Growth in a Time of Debt(国家債務時代の経済成長)』における計算的間違いをマサチューセッツ大学大学院生が見つけた話。

院の課題でこの論文が題材となり追試を試みたものの再現出来ず、上記の著者に生データのエクセルの提供を依頼し、送られて来たエクセルの中に間違いを発見したというもの。
様々な英語メディアでも取りざたされた。件の論文は「GDP比で政府債務残高が90%を超えると経済成長が低迷する」という主張で各国の政策の根拠としても挙げられる影響力のあるものとのこと。近年では、EUの政策はまさに当てはまると思われる(僕は専門ではないのでエラそうなことをホントは言えませんが)。

件の院生 トーマス・ハードン氏の功績はもちろん大きいのではあるが(課題にまじめに取り組んだらこの発見にたどり着いたというストーリーが、なんともアカデミックのあるべき姿と、院生にも十分な力と専門性があり、もしかしたら教授級、いや、それ以上のものを持ち合わせていることを示す例として、素晴らしいではないか。まぁ、28歳だし、自我と思考力は既に十分なわけですよね)、その計算違いを認めてもなお、著者らは論文の主張の正当性は崩れないとしている。
もちろん、他の専門家の主張やIMFのデータ等、議論は最前線で確固たる結論に至るには拙速だし、ここは、私の専門ではないのでこれくらいにする。

瀧本氏の指摘として、そもそも債務残高の高さが低成長を導くという因果のストーリー以外に、低成長が債務残高を助長するという逆の因果の可能性もあるわけで、時系列もファクターに含めたより詳細な解析が必要であるが、そもそも、経済学や社会科学で相関以上の因果を解析することは難しい(実験が難しいから)。
これは、さすが瀧本さん、全うな科学的姿勢だと思うわけだが、さらに彼が指摘する重要なことは「晒される」こと、だというのだ。

このコーナーの「今月の格言」を引用させてもらえば、
「あらゆる命題の正しさは、反証に耐えて残っている、つまり、議論にさらされていることで保証されている」というのだ。

これは、自然科学研究にまで拡張しても、現実的運用として私は賛同する。

実験室レベルの(手法的に手堅いと思われる)研究であっても、実験の確率的誤差、手技の難しさ(熟練度)、論文の言語的記載からもれるコツ・ラボごとの些細な手法の違い、などによって結果は左右される。
同じ命題に対し、様々なラボ、様々な手技によって時間をかけて確認される(晒される)ことに耐えた知見は、実に再現性が良い。
私の分野で言うと、「実験の48時間前にエストロゲンを、6時間前にプロゲステロンを打つと雌ネズミが発情する」というのは「見つけた人マジエラい」と思うくらい、再現性が良く、多くの研究者が長年用いている方法である。
逆に、最新の知見は「マジかよ...!?」と感じることが多いのは、もしくは実は再現取れない、ということは、多くの研究者がアンダーグラウンドで思ったりしているわけである。

こういった観点、晒すということが重要であるという点で、再現を取る課題を出した教員、その課題に取り組んだ院生、データを提供した著者は、科学的姿勢に照らして極めて健全であるといえる。

一方、近年のハイレベル・ハイインパクトと言われるジャーナルは、その投稿数の多さによる紙面(字数)の都合から、方法についての記載が非常に少ない。
例えば、「この染色は "Standard protocol" で行った」みたいな感じである。
「普通の方法って何だよ!!っw 普通にやっても染まらねーしっ」なのである。

これでは、「空気感」科として、学が科学たり得ない(反証に"social"なコミュニケーションを要する)。
生物学領域でもっとも権威があると考えられるCell, nature, science (合わせて略してCNS: Cellは生物学総合誌、nature, scienceは科学全般の総合誌)では、以前からこのような傾向が強いが(Cellは、結構しっかり書いてくれるけど)、最近、専門Top誌であるNeuron(Cell 姉妹誌で、nature 姉妹誌のNature Neuroscienceとならぶ神経科学専門top誌)でも、物足りない記載を見かける。
せめて、神経科学の狭い意味での専門top誌で、北米神経科学学会(SfN)の雑誌である J. Neurosci. はそこのところ今後ともよろしく、である。(でも、参考資料のweb版への添付禁止になって、今後どうなるのだろう)。

もっと、自分の手法に自信があるなら、みんな晒していこう。
逆に、晒せないのなら、自信がないのだろう。


同じ意味で、学会や、カジュアルでフランクな研究会に出向いて、
細かい手法まで含めて他のラボの人と話し合うというのは、健全な科学、もしくは、
大学院生などが健全に成長する上で極めて重要に思われる。

実験手技は、実は、ラボごと、分野ごとに継承されるものが異なることがある。
自分のラボだけに閉じこもっていると、ともすれば、無批判に良くない方法を継承し、ガラパゴス化する可能性がある。
もしくは、無意識のウチに、自分(達)を肯定する(したい)方向にしか議論できなくなることもある。論文を投稿してからしか、間違えに気付けないのは、非常に悲しいし、(ボスは、まぁ、いいのかもしれないけど)実際に手を動かす現場の実験者は、それまでの数年(自分の人生)を振り返って、(言われたことを信じて従ってやった人ほど)軽く死にたい気分になるだろう。


個人的には、自分のマインドセットや自信が属するコミュニティ内に他者性を意識的に保ち(疑似晒し)、かつ定期的に、権威性や日本人的遠慮を排して、外部に晒して意見してもらう機会を持ち続けることを忘れたくない。逆に、晒しても怖くない実験と議論を日頃からしたいものである。



さて、科学の現場の話から瀧本さんの連載にもどってみると、
論拠がさらされてさえいれば、少しの教養があれば、専門家でなくとも反証に携わることが可能だと指摘している。
例えば、行政刷新会議が作成した「行政事業レビューシート」というものが公開されいるらしい。
これらに記録される政策に、本当に主張通りの効果があったか検証し、草の根ロビー活動に役立てる実験的な試みを行うサークルなども、東大・早慶・中央大の学生らによって組織されているらしい。面白そう。

瀧本さんもそうだし、データジャーナリズムに高い関心を持つと思われる津田さんがメディアで活躍されることは、非常に「科学的」で、個人的には期待をしている。あと、裏で早稲田のミッキー先生にも暗躍していただきたいw

ところで、この「晒す」ということは、科学的反証可能性を社会的に担保するものであるが、これは、言ってみれば、広い意味での情報公開であり、「民主的」であることの担保である。みんなで使って、みんなで試して、誰でも議論出来る。「みんな」の範囲は、現実的には状況依存ではあれど。



「大学をオープンにするとか、サイエンスコミュニケーションをすることの意味ってなんですか?」と問われることが多いのだが、その理由は、そういうことではないかと、ここ1-2年は考えている。