アーキテクチャまで持ってけ! ニッポンのジレンマ-新TOKYO論

ニッポンのジレンマ、新TOKYO論、観た。
*ワイン飲みながら書いたから校正してない。


面白いなーと思ったのは、鈴木さんが言った「つまらない」ということ。

冒頭で社会学者の新さんが、東京でオリンピックをやらなきゃいけないのは、世界の主要都市間でのプレゼンスとして避けられない当然の流れで、国際競争力が落ちてる東京としては、こういうイベントを通しての変革(都市計画など)をやらざるを得ないと。で、これには建築家の藤村さんも同意。

だけど、そういう(おそらく資本主義的な観点の)話しを、鈴木さんはつまらないと。面白い都市ってのは、そこに住む人が面白い都市であると。僕なりに意訳すれば、そこに住む人が、自身の創発で何かをやってて元気であるのが面白いということかな。で、鈴木さんの実践であるリトルトーキョーの紹介がされる(ここの映像でYOSHさん登場)。
ここでは、仕事を持ってる人が、全く別の市民としての顔を持って、あたかも別の職業をしたり「税金」も払って自治をして、その税をどんな「公共福祉」に使うかの合意形成もする、そういうコミュニティ。
で、鈴木さんはその先に何が生まれるか、明確なヴィジョンを持っていないというか、コントロールするきはなくて、他の色んな都市でもオープンソースのモデルとして似たようなことが起きると、何か面白いことが生まれることを期待してる感じ。
この姿勢って、僕から言わせると非常に資本主義的な感じ。極めてボトムアップの自由な発想の中から生まれるイノベーションに期待している感じは、資本主義の原動力であり得意とするところそのものな感じ。

こういうことが沢山起きることこそが、都市としての国際競争力を上げることにつながる筈で、実はまったく相反することではないはずのことで、一瞬、鈴木さんと新さんの意見が対立したのが、面白いというか、日本の現状かなぁと。



それを物語るアドビの国際調査が途中で紹介されたんだけど、世界の主要都市で最もクリエイティブだと思われてる都市は、なんと東京であると!しかし、東京の人は、世界の他の都市の人と比べて自分たちをクリエイティブだと思ってはいない、というのが、調査の結果。

おそらくこれは、実際に東京、もしくは日本でクリエイティビティの高いアイデアは草の根的には沢山あって、各分野では国際的に有名なんだけど、東京もしくは国全体の構造を変えるには至らないので、自分たちの実感や自信としてフィードバックされないのではないか、というのが僕の意見。

今丁度、WIREDのオープンガバメンと特集を読んでる最中なんだけど、毎回WIREDを読んでて見受けられる事例は、アメリカだと、シリコンバレーベンチャーが開発したシステムやアプリが、各自治体のシステムとして採用されたり、NYの商店がこぞって使い始めたり、ボトムアップのアクティビティが、全体の構造に影響を及ぼす、つまりアーキテクチャの改変に繋がってるんだなぁという、ところ。

おそらく、これが日本には足りない。

それは、アメリカは各州の自治が強くて、日本の地方分権が進んでいないからかなぁとも思う。藤村さんの言葉を借りれば、ある自治体機能を実装するために適した、機能単位がダウンサイジングされてないからかなぁと思う。

だから、クリエイティビティの高さを実感できて、社会全体に浸透させるには、アーキテクチャにまで持って行ける人が、特に日本には必要。
その意味で、番組の最後の方でも紹介されてた藤村さんの大宮の再開発の、計画から実行に至る各段階で住民と役人を交えて「見える化」し、選択肢や合意形成の適切なサイズも設計してやっていくやりかたは、非常に現実的で未来のある実践だと思えます。

藤村さんは建築家だから、様々な問題を、空間設計の問題としてとらえることで、人々に問題をシンプルなカタチで理解可能にするという手法で、見える可し、複雑さをダウンサイジングし、市民と役人、もしくは個人と集団の中で起こりうる齟齬、共通の言語で会話できなくなる共約不能な状態に、共通言語を与えているように思えます。
コミュニケーターやインタープリター、もしくは架け橋。
こういう役目は非常に重要なんだけど、翻って、ボトムアップな活動をしている社会活動家的なことをしている人には、それをアーキテクチャに持って行くビジョン、役人やものごとを俯瞰的に見る学者には、こういった活動を全体の構造を変えるのに役立てる目利き力みたいなものが必要なんではないかなぁと、思って、夜も更けました。

恋物語 -ひたぎ エンド- 第二話を、もう一回見て寝ます。