科学が、科学たるための、流儀

twitterからの転載ですけど。

実は、とある晩の、どこぞの方面の方々の、
僕がくだらないと思ったTL上の議論に関して、そのときはメンドクサイからクビを突っ込まなかったけども、そのとき思っていたことも含めて、なんとなく、まとめる。




科学者教育の初期においてもっともしつけるべきものは、「結果と考察を明確に分ける」ことだと、改めて思いますね。結果が素朴に示すものは何で、それは自身の仮説を支持するのか、否定するのか、予期せぬ発見があったのかを、まずは狭い範囲で考察したうえで、夢のある考察である妄想を未来に繋ぐ。

論文に使えるのは、狭い考察くらいだけど。 総説とか書く機会あれば、妄想を仮説というカタチでぶち上げも可能か。 モデルの提唱。 そのモデルじゃダメなら、更新すればいい。 Articleで新仮説まで言えれば、そうとうな実験・研究。 将来的には、僕もそこを目指す。

経験的に、修士や博士の予備審査などで、結構すごそうな発見してて実験量もあるのに、他の可能性に留意せず自分の結果を過度に評価しすぎると「そこまで攻め込まなくても・・・」ってくらい先生たちがカチンと来てる感じの質問する。 


(さすがに先生たちは、意識的にか無意識的にか、結果と考察を明確に分けているのだろう。まともなひとなら。昔の科学者は、けっこうその辺うるさかったんじゃないかとおもう)


そこそこ結果があって、示せたことは少なくても的確な考察と、今後の展望を示せると、まぁまぁの反応が返ってくる。 もちろん全て完璧に出来れば良いけど、そうもいかないから、今後独り立ちするのに必要な能力としては、得られた結果に適切な考察をあたえつつ、次の夢を追うための計画を練る力、だろうと思う。テーマを捨てる、とうい選択肢も含めて。捨てる前には、コンパクトでも、まとめられるとこはまとめる。

しかし、最初からコンパクトにまとめることばかりしてると、諦め癖が付くから、ある程度期限決めて、粘る。 どこで粘るかは、センスと、運かな。あとは、自分がやりたいことに正直に。その方が、前向きに、諦めもつく。



*予備審が間近に迫った院生の、戯言であるっw 功を急いで大事なものを見落とさないように。



結果と考察を分けるというものは、科学を科学足り得るものとしている、もっとも重要な点な筈。 極論すれば、考察には誰もが同意出来なくとも、結果は誰もが重要だと判断することも、あり得る。

ぼくなんかも、ダン性ホルモンであるアンドロゲンに注目してるから、前立腺癌の研究は勉強になる。アンドロゲン受容体の分子特性に関する結果は、僕の実験にも即応用可能である。 でも、僕は脳の研究しているので、機能に関する考察は、ほとんど飛ばし読み。(前立腺と脳では、その分子周囲のマシーナリーが違うので、要注意)



考察まで含めて、広く広まるのは、とてもいことだけど、むしろ、結果が「一人歩き」することが、科学における参照可能性を上げるだろう。技術的問題がない限り、理論は時代とともに更新されても、結果は何かを示し続ける。

イントロと考察には、科学も人の営みなので、主観やイデオロギーが入り込む。 なので、結果はむしろ、結果だけ一人で歩かせて、様々な研究者に引用され、ヒントを与え、共有されればよい。 それによって、実験をおこなった研究者のバイアスを排して、次の結果や考察が行われるから、科学の客観性は、コミュニティとして担保されうる。 だからこそ、書く側も読む側も、結果と考察を明確に分けるべき。 

nature型、PNAS型の論文は、字数の関係でソコの線引きは不明瞭。
最近は、若い研究者の採用期間も短く、競争も激しく、必要とされる業績も多きので、そりゃ。nature, cell、Neuron、Nature neuroscience、PNASなどに、論文を出したい。

でも、だからと言って、そういうジャーナルの論文ばかり読むことは、科学者に必要な姿勢を身につけさせると言う教育的側面からは、良くないと思う。



ところで、

考察が寧ろ一人歩きしたのは、「脳科学が自由意志を否定する」という論拠にされる、リベットの実験とか? さらっと見た感じ、僕は、あの結果が自由意志を否定するとは、必ずしも、思わなかった。

僕はちょっとしか哲学などの人文系の論文を読んだことがないので、よくわからないというのが本音なんだけど、科学論文程は明確に章の区別とかがない様な気もするし、レトリックも駆使して議論をしていくので、まるっと考察やその他の表現も含めた思索をひとまとめにして、読み取るのだろう、な。