『すべてがGに見える』

打ち合わせから帰宅すると、菅野はすぐさま、コンタクトを外すために洗面台に向かう。洗面台の背後にある浴室のドアは、朝、家を出るとき、開けておいた。浴室のドアは折りたたみ式で、樹脂素材ではあるが磨り硝子状に半透明になっている。その折り畳まれたドアに、コオロギのような影がある。


「そんなバカな...」


そんな風情のあるものがこの部屋にいるわけがない。第一、季節が違う。その影の正体を、菅野は分かってる。しかし、その影の主を、その種を、菅野はこの部屋で一度も見たことがなかった。その正体が分かっているにも関わらず、菅野は自分が意外にも驚いていないと感じた。菅野は、正解していると分かりきっている問題の回答が記載されているをページをめくるかのように、折り畳まれたドアの、磨りガラスと磨りガラスの間を落ち着いて、開く。


Gだ。


Gは、V字状に折り畳まれたドアの間を素早く下り、浴室へと逃げ込む。菅野は、そうすると数年前から決めていたかのように、浴室のドアをゆっくりと閉める。ここ最近の菅野は、泰然自若がモットーだった。それを体現出来ている自分の余裕に、少し満足だった。
中断していた作業を何食わぬ顔で再開し、シャツを脱いだ。そのシャツを洗濯籠に入れる。そのとき初めて、菅野は焦った。


「風呂に入れないではないか...」


この家に、G対策はなにもなされていない。
とりあえず、SNSにGが出没したことを書き込む。知り合いの研究者が「ミントミント」とメンションをよこす。Gはミントが苦手らしい。しかし、当然、菅野の家にミントはぬぁい。
何かがこすれる音がして、ビクりとして後ろを振り返る。エアコンの風で、カーテンがこすれただけだった。


「すべてがGに聴こえる」


一度そう思うと、部屋にある、暗い色の小さな物体がすべて、Gに見えるようだった。

「すべては幻想だ。元を叩くしかない」

菅野は部屋に積まれたJapan Timesを一部引き抜き、丸めた。学生の頃に語学の授業の教材として毎週買っていたものが、意味もなく残されていた。もう片方の手に、床に置いてある殺虫剤を持った。
「殺虫剤が効くだろうか。しかし、これでやるしかない」

菅野は再び浴室に赴く。扉を開けた瞬間に、ヤツが出てくることに警戒しながら、そっとドアを開ける。


Gだ!!


即座に殺虫剤を噴霧する。が、やはり効かない。その時菅野は気付いた。自分が手にしているものが、殺虫剤ではなく「あみ戸に虫こない」であるということに。一旦ドアを閉め、居間にもどり、今度は確かにアースジェットを手にする。左手には、英字新聞を握りしめている。再びドアをあける。Gは、中枢神経に異常をきたしている様子がまるでない。壁際のGに向けて、今度こそ殺虫剤を吹きかける。やはり中枢異常は観察されないが、Gは壁と湯船との間の隙間に向かって逃げていく。その隙間に向け、数秒間、菅野は殺虫剤を噴霧し続けた。



しばらくしても、Gが再び姿を見せることはなかった。湯船は、浴室にすっぽりと塡まっているため、壁の隙間は3面ある。そのすべての隙間に対し、すべての可能な確度から、菅野はシャワーでお湯をかけた。

数十分しても、Gは姿を見せない。壁との隙間に流れたお湯、および風呂桶のお湯は、すべて一つの排水溝に集約されるようになっている。もし、Gが死んだのであれば、そこに流れ出てくる筈だ。しかし、その姿はない。隙を突かれドアから逃げられたとも考えられない。菅野は、その防衛戦に関しては自信があった。

「とりあえず、風呂に入るしかない...」

その日は、中目黒で急な雨にふられたこともあり、早く風呂に入りたかった。念入りに、隙間と言う隙間に再度お湯を流し、湯船にお湯をためる。
全裸で襲われるのはさすがに恐い、と思いながらも、菅野は浴室に入った。誰が見ているわけでもないのに、平静を装いながら、湯につかる。しかし、落ち着かない自分に、自覚的にならざるを得ない。
菅野はそそくさと髪を洗った。新築で住み始めたとは言え、この家にも10年か。掃除や手入れを怠っている部分もある。その10年の綻びが、現れたのだろう。
「まるで俺の人生のようだ」
そう、思った。


目を瞑り、シャンプーを流した。
目を開けた次の瞬間、辺り一面が真っ黒に、つまり、自分がGに埋め尽くされていたら、どうしようかと思った。恐る恐る目を開ける。もちろん、そんなことにはなっていない。
いったい、Gはどこへ消えたのか。
ここはまるで、「湿った密室と生物学者」ではないか。
そう、思った。


浴室から出て、髪を乾かし、ぼんやり煙草を吸いながらウィスキーを一杯飲んだ。

PCに向かい、狼狽していることを気付かれないように、文面を2、3度チェックをしてから、学術集会関連のメールをT北大の某教授に1通返す。先方からの返事はとても好意的だった。御陰で会の運営は何とかなりそうに思えた。また、某研究所の研究員からも返事が届く。こちらも好意的で安堵した。


もう一度、浴室のドアを開けてみる。

やはりそこに、Gはいない。



SNSで、母からメンションが届く。
「あらまぁ!出たのね。(>_<)」


そんな顔文字の気分ではなかった。


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