ココロを揺さぶる研究


精神を揺さぶる研究をしたい。





最近は、自分の一生のテーマとなる研究を、そろそろ見定めたいと思っている。


僕が研究を始めたきっかけは、社会問題と、あるショウジョウバエの研究だ。


僕は1983年生まれ。妹は、ゆとり教育第一世代。

僕らが物心ついた小学生の頃には、既にバブルなんて弾けていた。
僕らが中高生の頃というのは、学級崩壊、ひきこもり、虐待、犯罪の凶悪化・低年齢化、リストラ、男女平等・機会均等などがメディアで大きく取りざたされ始めた時代だった。

少なくとも、僕はそう感じていたし、「最近の若者は~」的な文脈の言説からそういうことの走りの世代であると「言い聞かされた」ようにすら感じた。


そのような時代にあって、人間観とか人間の精神について自然と話題が盛り上がるわけだが、
ニュースやワイドショーで見聞きするコメンテーターや評論家による人間の心の解釈は、
恣意的で、精神論的で、解釈の仕方によってはいかようにもいえる表現というか、
結局のところ個人の経験と直感の域を出ない説明でしかなかった。
誤解を恐れずに言えば、文系的というか。。。
(もちろん文系にも実証的学問はあります)



僕自身、精神的なものが身体に出やすい体質だったこともあり
(突然給食を受け付けなくなるとか)、
何となく納得出来なかった。


しかし、上記のような社会問題が起こるに連れて、その背景にある病気も有名になった。
うつ病ADHDアスペルガー自閉症などの発達障害統合失調症(かつてはまだ精神分裂病と呼ばれていた)などの精神疾患PTSD性同一性障害、などなど。


だが、その理解が広まったことで、言説が変わったようには思えなかった。
(今ではそれでも大分広まったと思えるけど)


ようするに、足りないと感じたのは、発言・説明の根拠の客観性だった。
人の心とか性格とか、行動傾向と言うものに、客観的な説明は出来ないのか?


政治や、経済、金融に関しては説得力のある説明ができる評論家達も、
人の心や行動に関してはとたんにピンぼけした発言しかしなくなるように
思えてならなかった。

つまりは「頑張れよ」とか「根性でしょ」「それ甘えでしょ」
みたいなことしか言ってない。


もしそこに生物学的、医学的な原因があったりしたら、
いじめに近い、言い方だと、思うけどね。僕は。


そんなことを感じていた浪人の頃。
早稲田大学の受験生向け冊子でsatori遺伝子の話を読んだ。

  *同じ主旨の話はここにも
  http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000178_02.html



その遺伝子をオスのショウジョウバエから実験的に無くすと、
メスに求愛をしなくなる(それでsatori悟りと名付けたそうな)。

しかしよく観察をすると、オスがオスに求愛するようになっていたと!
この研究はPNAS、natureといった一流専門科学誌に掲載されたものです。


この話を知った時、
例えば、ゲイとか、性同一性障害とか、そういったことを
精神論のようなもので片付けてしまうのは、非常に問題なのではないかと、
思ったのを今でもよく覚えている。

「社会問題」も「科学的」に考える必要があるのではないかと。

この研究は、僕の心を最初に揺さぶった研究。

ジャーナリズムとか、そういうものにも当時の僕は興味があったけど、
こういう生物学の研究をしてみたいと思った。
それで、心とか、行動に関わる「脳」の研究を始めたのだった。


この社会には生物学的人間理解が必要だろうと、
そしてその研究の成果は、(ジャーナリズムの文脈等から)
社会に伝えていかなくてはならないだろうと、
そう思って研究始めたから、今では研究だけではなくサイエンスコミュニケーションもかなりやっている。

僕にとっては行動にまつわる脳の研究も、サイエンスコミュニケーションも
同じ初期衝動から始まっている。



次に僕の心を揺さぶったのは、脳の性差や性分化の研究。
学部を過ごした早稲田時代のボスが切り開いた研究。

オスのラットのある神経繊維を切断すると、オスがメスの性行動を示すようになる。




さてさて、10代の頃からしたら、大分大人になった僕は、
実験も出来るようになったし、研究者業界のことも政治的なことも、
研究を論文と言うカタチにするということも、
直接経験したり、見聞きして、詳しくなりました。


しかし、一番大事なことは、
「心を揺さぶる研究」をすること。


コレが出来なきゃ、僕にとっては研究をしている意味はないのだな。
もしかしたら生物の研究じゃなくても、
こころが揺さぶられれば、それで良いのかもしれないけど。

それで良いのかもしれないけど、
今の僕が自分にとって、社会にとって、もっとも精神を揺さぶれるものは
科学ではないかと思うのだ。

それはサイエンスコミュニケーションを通して、
人々と語り、仲間と「編集」をしてみて、今思っていることさ。


人から「編集」してもらえるような、こころ揺さぶる研究を
今、したいと、思っているわけだ。

科学は、見えないモノを見えるようにするチカラがあるからね。
見えないもの、気付かないものに気付いた時、心が揺さぶられるんだろう。

もちろん、それを出来るのは科学だけではないんだけども、
今の僕の科学者という立ち位置は、日本の中では
結構稀なキャラクターとして遊べる気がしている。



もちろん、そんなこと言ってる前に、科学者として研究業界で実績を
あげろよって時期なんだけど、心揺さぶる研究で論文を書ければ、
そんな良い実績はないわけで。


こころ揺さぶる研究をするってことは、
僕にとっては、研究者として、サイエンスコミュニケーションとして、
人として、一番色んなことを直球で勝負出来る方法であり、
同時に目的なんだと、思い出したのさ。